面倒くさがり屋の私には、ブログを書くのは非常に億劫なのだが、それでも頭の中ではいろいろと思いをめぐらせている。
夜中に目が覚めたし、患者さんのリクエストもあるので、あれもこれもと思っているものから何とか書き始めよう。
お題は「空海と竜馬」。
言わずと知れた四国繋がりだが、両者とも司馬遼太郎の作品の主人公でもある。
先日来、「空海の風景」上下巻(中公文庫)は休日1日、「竜馬がゆく」全八巻(文春文庫)は1週間で読んだ。
夢中で読めるからお勧めである。
ただ司馬遼(偉そうに言ってしまった)には、登場人物を比較するだけではなく優劣を付け過ぎる嫌いがあり(昔、ハードカバーで読んだ「翔ぶが如く」でもそうだったが)、当然そこに彼の価値観が反映されるわけで、そこが私の彼を好きになれない(小説は面白いが)ところなのだ。
「空海の風景」では、天才空海に対して、真面目な秀才最澄が憐れに感じられたが、一方では、ある種人間味のある愚かさを見せる最澄に対し、空海には唯我独尊的な人間臭さがイメージとして与えられている。
しかしながら、四国遍路をして「目に見えぬ何かの力」を体感した者(歩き遍路はだれでも感じるようだが)としては(その体感が頭の中の勝手な産物だろうということはうすうすわかるのだが)、やはり空海は単なる生身の人間としての空海ではなく、人間を越えたスピリチュアルな概念的存在(哲学的でカッコイイ~?)、神・仏の中のお一人と捉えてしまうのだ。
天台宗徒にとっての最澄もまた然りではなかろうか・・・
「竜馬がゆく」では、竜馬・勝・西郷・高杉以外は、概して軽く扱われている。
司馬遼氏は、茫洋とした度量の大きな人を第一の人物としているが、そういう人は概して周りの人にとっては大いに振り回される存在であり、あるいは不幸の元凶だったかも知れない。
また彼らは歴史を動かす起爆剤にはなるが、実際に動かしたのは、その他大勢の、懸命に生き、そして死んでいった者達の小さな力の積み重ねであったようにも思えるのだ。
歴史上の人物を描くに当たり、その人なりに懸命に生きた人生や運命を、もう少し謙虚に評価しても良いのではと思ってしまう。
比較するとなると、第三者的に上から見た判断をせざるを得ないのだが、評価となると、われわれ衆生・小人は常に、自分ならどうすることができたかという視点に立たなければと思うのは、言いすぎだろうか・・・
まあ小説では主人公を際立たせる必要があるかとは思うのだが、司馬遼ほどの大作家が書くと、登場人物の小なるイメージが固定されてしまうことが、至ってかわいそうなのだ。
まあ大作家が相手やし、今日はこれくらいで堪忍しといたろか・・・
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