早出
朝は4時過ぎに目が覚め、暗い中でごそごそと準備をしていたら、同部屋の方が「明かり点けてもいいですよ。」と言ってくださった。
お言葉に甘え、急いで荷物をまとめて下に下りた。
顔を洗い、宿のおばあさんに送られて出発したのは丁度5時頃だった。
さあいよいよ19番立江寺までの約40キロに挑戦だ。
谷底の川べりに位置する集落にはまだまだ朝の光は届かず、静かに眠っている。
だれもいない舗装道路に、杖と鈴の音だけが響く。
県道を下って河野橋で鮎喰川を渡り、さらに下って13番大日寺を目指すが、明るくなってくるのに従って車も多くなり、結構危険だ。
道路の右側を歩きながら、すれ違う対向車に「おはようございます」と口の中で小さな声で挨拶をし小さく頭を下げていたが、それに気付いて会釈を返される方もいた。
ただ後ろから来た車の中に、急に幅寄せしてきたのが2度ばかりあった。
あれは何かの偶然か、それともお遍路をからかいたくなったのか、どちらにしても気を付けなければ・・・
7時過ぎになり、大日寺近くのコンビニでおにぎり2個とお茶とアイスを買った。
ほんとは涼しい店内で食べたかったが、行儀が悪いので暑さを我慢して外のベンチで食べた。
こんな私をコンビニに来る四国の人は、お遍路を見慣れていせいか、あるいは早朝からの人相の悪い遍路姿に警戒するせいか、きっぱりと無視してくれて少し寂しい。
どうやら遍路仲間同士だけが、親しみのある連帯感で結ばれているようだ。
結局大日寺までの11.5キロを、2時間以上かかって歩いた。
まだ今日の予定の4分の1だ。
朝から休みなしで、しんどかった~。
(朝イチでうっかりして、大日寺の写真を撮るのを忘れた。)
大日寺は珍しく県道に面しており、さほど大きくはないがきれいなお寺だ。
境内に入ってびっくり、きのう「へんろころがし」で少しの間、勝手に引いて(後に付いてスピードを維持させて)もらった青年がいたのだ。
なんでも昨夜はこの近くで泊まったそうだ。
焼山寺を出るのは私より30分くらい後だったと思うので、きのうの内にここまで来るとは、さすが若い人は違うなあと感心した。
彼は17番の井戸寺の近くに親戚がいるとかで、今日はそこまでの、のんびり歩きらしい。
相変わらず清々しい青年だ。
大日寺からは、すぐに県道から離れて寂しい遍路道に入る。
道端の仏様達に挨拶しながら再び鮎喰川を渡り、少しややこしい道を14番常楽寺に向かう。
このお寺は流水岩の庭で有名だが、けっこう趣と潤いのあるお寺だ。
次の15番国分寺まではたったの0.8キロ。
国分寺というからには、かつては県庁のようなものだったのだろうか。
立派な山門と伽藍配置が見られるが、大塔あるいは金堂跡なのか、礎石だけが残っている部分があったのは残念だ。
境内には木陰となる木がほとんどなく、暑く乾ききっていて、思わずマカロニウエスタンの決闘場面に砂塵が舞い上がるシーンを思い出した。
また質素な納経所には没落貴族の空しさのようなものを感じた。
初めてのお接待
次の16番観音寺までの1.8キロは大変だった。
宿をまだ決めていなかったので、国分寺を出てすぐ、19番の立江寺に電話してみたが、お盆で宿坊はやっていないとのこと。
あわててその近くの「鮒の里」という宿に電話したら、幸い泊めていただけることになった。(宿の名前からすると、古い宿で鮒料理ばっかり食べさせられそうだが、これが大きな間違いだった。)
こんな電話を道端でしていたのだが、杖を民家の塀に立てかけ、コピーした地図を入れているビニール袋から宿泊施設一覧表だけを取り出し、いらないものは一旦地面に置き、ケイタイは左のポケットから、ボールペンはさんや袋から取り出して(民家の犬に吠えられて)・・・
ということをしていたのだろう。
そこから1キロほど行った所で、突然後ろから来た車に呼び止められた。
窓が開いて、ご夫婦連れの70歳位の遍路姿をした運転者に「数珠落としてませんか?」と聞かれた。
「ああ~っ!」
ない、ない。
左手にしていた数珠がない。
素人遍路の致命的なミス!
落とした人が取りに来るかもしれないと思って、そのまま置いてきたとのこと。
「車に乗せて戻ってあげる。」とおっしゃる。
ありがたく乗せていただいて戻ってみると、やっぱりあの時電話をした場所だった。
歩き遍路は車に乗りたがらないということを良くご存知で(なんと16回も車で廻っておられるらしい。)、そこでお礼を言って分かれた。(本当は乗せていただいた所まで、このまま連れて行っていただきたかったのだが・・・)
と言う訳で約1キロ余計に歩く破目になったが、優しさが心に沁みた1キロだった。
ただ失敗は、お遍路が接待してもらった時にお渡しする納め札を、あわててお渡しできなかったばかりか、逆に赤の納め札をいただいてしまったことだ。
岡山県玉野市田井の横尾様、本当にありがとうございました。
観音寺で、お礼と道中安全のお祈りをさせていただきました。
次の17番井戸寺までの道は遍路マークが分かりにくかったが、途中でなんと、初日の7番十楽寺の宿坊で同じだった5・60代のご夫婦が、井戸寺の方から歩いて来られた。
挨拶してお聞きしたら、交通機関などを使い、一部のルートは逆に回っておられるようだ(多分奥様に「へんろころがし」踏破は無理だろうから。)
ほんとに感じのいい、優しそーなご夫婦だった。
砂漠のオアシス
朝5時に植村旅館を出て、やっと井戸寺までの18.8キロ+αを歩いてきた。
予想に反してこのお寺は、これまでのお寺の中でも1・2を争う程立派なお寺だった。
納経所には珍しく、若くてきれいな女性が2人おられた。
こんなに若くて納経帳に立派な文字が書けるのかなと、ちょっと心配したが(どのお寺でも、かなり高齢の方が、素晴らしく芸術的な文字を墨痕鮮やかに書かれる。)、これがどうしてどうして。
なんでも本職は書道の先生らしい。
さて次の18番恩山寺までは、徳島市内を縦断しての16.8キロ。
井戸寺の名前の由来は、弘法大師が湧かせたという「面影の井戸」があるからだそうだが、私には、砂漠を渡る前の最後のオアシス(井戸)のような気がする。
ここを出ると、徳島で遍路をやめて帰るか、それとも一泊余分に泊まらない限り、灼熱の国道をひたすら歩き続けなければならないのだ。
初めてと言っていいほどお寺でぐずぐずしていたので、井戸寺を出たのは12時頃だと思う。
ようやく砂漠に乗り入れる覚悟を決めた。
鎌田の奥さん
最初のオアシスとして、まずは大学の1年後輩で、同じサッカー部だった鎌田(呼び捨てゴメン)が徳島市内で大きな産婦人科をやってるはずなので、そこを目指した。
3キロほど行ったJR徳島線の「くらもと駅」から電話すると、病院の受付のお嬢さんが道を教えてくれたが、なんと目指す病院はほとんど「へんろみち」沿いにあるようだ。
そこから再び2キロほど歩いて、やっと辿り着いたのが「恵愛レディースクリニック」。
5階建ての立派な産婦人科医院だ。
ところがなにしろ産婦人科に遍路姿の男が入り込んだのだ。
いかに四国徳島といえども、皆さんを少なからず驚かせてしまったようだ。
案内されてエレベーターで上がって行くと、1人の普段着姿の女性がいた。
それが鎌田の奥さんだった。
なんでも鎌田本人は出かけているらしくて会えなかったが、
この奥さん、なかなかな奥さんである。
病院では事務長をされているらしく、しっかりされているだけではなく、とても明るく、ご自分の夫や息子達の自慢をあっけらかんとされる。
鎌田は幸せ者だ。
よかったよかった。
ちょっとお邪魔をしてすぐ帰ったが、帰りはしばらく一緒に歩いて下さった。
気持ちの良いひと時だった。
地獄の国道55号線
さてここからである。
今回の遍路で一番大変だったのは。
それでもまだ徳島市内を抜ける眉山沿いの道はにぎやかで気が紛れた。
「二軒屋」で国道55号線に出てからが最悪だった。
国道というだけあって道幅は広く車も多いが、
道の両側に大きな建物がなく、日影がない。
行けども行けども同じ景色。
お遍路はおろか、歩いている人なんて1人も見かけない。
足の裏が道路の熱さで腫れ上がり、熱いのか痛いのか分からない。
かんかん照りの照り返しで、意識は恐らく朦朧としていただろう。
とその時、国道沿いのレストランに停めた車から出てきた二十歳位の女の子が、「これどうぞ」とペットボトルのお茶をくれた。
地獄に仏、いや女神である。
これが初めての地元の方の「お接待」。
驚くと同時に涙が出そうになった。
心から感謝し、「南無大師遍照金剛」を思わず唱えた。
実はこの道ではあと二回「お接待」を受けた。
1回はこのあとしばらくして、がっちりした沖縄系の顔立ちをした男の方から、「これでお茶でも飲んで」と、ごそごそとポケットから出された150円をいただいた。
2回目は、フラフラになってもうどこを歩いているのか分からなくなった時、やっと見つけた勝浦川手前の喫茶店(レストラン?)で。
国道沿いのこのお店は、1階が駐車場で2階がお店。
おばあさんと息子さんとでやっておられたが、
かき氷を食べて出ようとした時、おばあさんが「これ持って行きなさい。」とビニール袋に氷をたくさん入れて下さった。
ありがたかった。
首の後ろや顔を冷やしながら歩いた。
これで生き返り、その後もまだまだ遠かったが、なんとか歩き続ける事ができた。
本当に死なずに済んだとさえ思っている。
四国遍路が、弘法大師が興した真言密教の行の一つに繋がるかどうかは分からないが、
「何らかの力によって生かしてもらっている」と実感できた「お接待」だった。
さて、こうしてやっと18番恩山寺近くまでやってきた。
何とかチャッチャッとお参りを済ませれば、納経所の門限の5時までに次の立江寺まで行けそうだ。
しかし大抵砂漠の向こうには素晴らしいオアシスが待っているものだが、期待は大外れだった。
怖い話
恩山寺に向かう参道は片道1車線の立派な舗装道路だが、その脇に例の赤い遍路マークを見つけた。
悪い予感がしながらも、仕方なしにその幅1mもないような夏草の茂る小道を急いだ。
あたりにはだれもいない。
やっと少し広い所に出たと思ったら、
こんな山門・・・
11番の藤井寺もそうだったが、まるで打ち捨ててあるかのような状態だ。
この山門をくぐると、木々に覆われた薄暗い道が続いている。
今度は2~3mの道幅があるが、石ごろごろの急勾配。
掃除や整備された形跡がない。
例によって道の脇には小さなお地蔵様や墓標のようなものがたくさんある。
気味が悪~い・・・
息せき切って登っていた時、
すぐ左斜め後ろで、だれかが「はあっ」と息を吐く音がした。
「良かった。だれかが登ってきたんや」と思って後ろを見たら、
だれもいない・・・
うわーっ!
あとはもう「南無大師遍照金剛」を唱えっぱなし。
絶対に気のせいではない。
大きな吐息だったのだ。
いったいあれはだれだったのか・・・
本堂や太子堂・納経所などはたいそう立派なのに、なぜ遍路道や山門を整備しないのか、はなはだ疑問である。
怖かったが、「旧遍路道を歩く」というのもマイルールなので、帰りもその道を大急ぎで下った。
ちなみに宿でそのことを他のお遍路に話したのだが、だれもその道のことを知らなかった・・・???
さていよいよラストスパートに入らなければならないが、4キロ先の19番立江寺に5時までには着けそうにもない。
仕方なく今夜の宿の「鮒の里」まで行くことにしたが、この宿は立江寺のすぐ手前にあり、結局この日は40キロ近く歩いてヘロヘロになって到着した。
鮒の里
着いてみるとログハウス風のなかなかしゃれた建物だ。
中ではもう皆夕食を食べている。
大急ぎで風呂に入ったが、これがなんと家のすぐ外に作ってある小ジャレた半露天風呂なのだ。
なぜかお湯が溢れんばかりに張ってあったので、シャワーで済ませた。
同宿の方は皆お遍路さんで、熊本の元自民党県連会長、一組のご夫婦、60歳位の自転車で回っておられる元英語教師、それと素泊まりらしい若い元自衛隊員となぜかスペイン人の青年、という具合に多士済々だ。
おいしい料理(鮒料理ではない)もいっぱい出していただき、皆さんと楽しい話ができて大満足。
とりわけこの宿の良いところは、とびきり親切で話の面白いご主人だ。
素泊まりの2人も、簡単な夕食・朝食に翌日のお弁まで貰っていたし、お盆で休んでいる宿が多い中、スペイン人の青年には次の宿の予約までしてあげていた。
決して豪華ではないが、最後の最後に最高のオアシスが待っていたのだった。
歩行距離:39キロ 宿泊:鮒の里(☆☆☆☆☆)
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